設計書の意味をもう一度考えてみろよ
katzchangのつぶやきで、オブジェクト指向開発を理解した開発者に、設計書は不要という両記事を知る。書かれていることは特に目新しくない。前から言われていることだし別にオブジェクト指向に限った話でもなかろう。→The Source Code Is The Design
2009年2月23日に書いた記事より再掲:
今更ながら「設計ができる」人に問いかける
- その「設計書」なるもので、本当にコード書けるの?
- 「書ける『はず』」ってのは「書ける」のとは違うよ。
だが、はてぶに寄せられた意見にはなんだかな〜と思わせるものも目立つ。
→UMLからコード起こせるの? Really?
→ただしい開発現場で経験を積んできたようにしか見えないが...
→例えばLinuxのカーネルの設計書って見たことある? なにか問題になったときに設計書がないといってぶっ飛ばされる人いる? 例えば知らない人の書いた「完璧な設計書」と「ソースコード」を渡されて「じゃ、メンテよろしく。設計書はあるんだから。」と言われて仕事できる? 設計書の存在は気休めになれば良い方で、実はなくてもいいし、ない方が良いような書き手の責任逃れ文書のほうが多いのが現実でないの?
2008年12月14記事より再掲:
「設計書」がないと実装できない
- 今日、自転車で坂を登っているときに唐突に頭に湧いてきた。
「設計書がないと実装できない」と言ってる人は、実は「実装できないから設計書しか書けない」もしくは「書かせてそれを管理するしかできない」だけではなかろうか。