再びサブプライム大学論

大学教係の方々と打ち合わせ意見交換。世間は電子書籍だの電子教材だのと騒いでいるけど、その前に何かやることがあるんじゃないの? という問題意識。そもそも学生は本を読んでいるのか? そもそものそもそも、学生は授業を受けているのか?

で、勉強不足の自分は衝撃的な言葉を知る。「初年度教育」というやつ。なにそれうまいの?

Googleで初年度教育を検索すると、初年度教育や初年次教育などのページがずらずらと出てくる。ざっと読んでみたが、こちら07年文科省調査 大学の初年度教育実施が8割にという記事が本日聞いてきた話をよく表現している。コマ数は大学にもよりけりだが、内容は以下のようなものらしい:

  • 大学とは授業に出るだけではダメですよ自分から能動的に勉強する必要がありますよ。
  • ノートの取り方。
  • 図書館とはなんぞやそれはどこにあってどう使うのか。
  • 文書作法
  • 発表作法

こういうのを大学で教える必要があるというのも驚異的な話だが、それは裏返せば高校までの教育がいかに杜撰であったかを示す現象であり、そのツケを大学だけに押し付けるのはいかがなものかと思うのであるが、一部の人気校を除けば受験で学生を絞るということが困難な少子化時代にあってはいかなる品質の学生であっても受け入れざるを得ないというのが実情なのであろう。そのツケがこういう初年度教育なのであれば、いっそ大学は五年制にして一年目は研修とすればいいのではないかとも思えてくる。あるいは対象を高卒に限定せず、一旦社会に出た人達の再教育の場にする、とか。

構造的な問題があるわけよ。

  • 少子化の中、高卒数が減少。
  • にも関わらず、大学の数だけは増えている。
  • 結果、本来「大学生」としてやっていくには苦しい学力の持ち主が大学に送り込まれる。

このような中で大学に通わせる意義ってなんなのだろう? という問題を学生本人もその資金源である親も考えていないのではないか、というのが自分の推定。学生たちが大学に通う意義を理解していれば、初年度教育などというコマを大学が用意する必要などないわけだし。学校によってはこの初年度教育授業風景を保護者に公開することもあるようだが、その風景はまさに小学校の父兄参観そのものらしい。高い授業料払った上でそんな義務教育の繰り返しを受けさせることを恥と思うどころか、着飾って授業参観に行ってしまう保護者の存在に「イタさ」を感じてしまうのである。

そういうイタい親達をお客様とする以上、大学側もいたれりつくせりでお子様を扱わざるを得ない。成績が足らないから単位を出さない、なんてことをすると「金を払っているのに単位を出さないとは何事か」と乗り込んでくる親もいるのだそうな。そういうのは極端な例と思いたいが、機械的にに落第→放校、という処分を出したらあっという間に学生不足となってしまう。それは大学の経営を直撃するので、いたれりつくせりの指導でせめて卒業までは授業料を払ってもらえるように大学側も対処せざるを得ないというのが実情なのであろう。こうして大学は「就職斡旋オプション付の高級カルチャースクール」となっていくわけである。またの名をサブプライム大学。

サブプライム化の影響は、プライム領域の大学にも広がりつつある。

無受験全入とまではいかなくても、推薦枠やAO受験枠で進学してくる学生は定期テストの成績で内申を持ち上げる「技術」に長けている。比較的短期間・狭い範囲の学習は得意だが、大学受験のように広範囲の知識や応用を求められる知力は鍛えられていない状態。もちろん、そのままでも大学での進学は問題ない。ただし、就職が決まって現場に配属されるとその弱点が露呈する。研修で習う範囲の仕事はそつなくこなすが、そこを逸脱した状況に対処すると何もできない、というのである。以上は企業で採用を担当されている人から聞いた話であるが、私が耳にするここ数年の「問題を抱えた新社会人」にも共通する話である。それなりの大学をでているのに、このような弱さを抱えてしまうのも推薦・AOの間接的弊害であり、やはりそれは大学と学生との間の需給関係が破綻した結果生まれたものであろう。

この需給関係を均衡させるにはいくつかの方法が考えられる。

  • 大学を減らす
  • 学生を増やす
    • サブプライムな学生でもどんどん受け入れる
    • 留学生をどんどん受け入れる
    • 高卒だけではなく、一旦社会に出た人を再度受け入れる

サブプライムな学生をどんどん受け入れる弊害はすでに明らかになっているので、それ以外の選択肢を組み合わせることになるのでは。